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通知公告
"舜禹杯" 日语翻译竞赛原文(日)
阅读次数:    发布时间:2016/01/05

日本の秋色

きのう、用事があって出かけ、バスの停留場に立っていたら、向う側の酒屋の横の「英語、タイプライチング教授」とペンキ塗の看板のわきに、もう一つ今まで見当らなかった広告が出ているのに心付いた。とりいそいでこしらえたらしい紙の広告で「オリンピックにそなえよ!」と上の方に横書きされ、下に「速成ガイド資格準備、速成オリンピック用会話教授」と大書されたわきに、それぞれ赤インクで線がひいてある。二三日前の雨のせいで、赤インクは侘しく流れ滲んでいるのであるが、この自宅英語塾主は、それ程の積極性をこの広告の効果に認めていないと見え、よごれた特別広告はそのまま、錆のふいた門の鉄扉の外ではためいている。

 四年後のオリンピック東京招致に亢奮した感情や、今回のベルリンオリンピックに出場した日本選手に対する感情、又一般にひきくるめて日本の役人たちがオリンピックに対して一般民衆の感情を向けようとして煽り立てたその方向や現実の結果について、今日、民衆の常識は、どのような判断を加えているであろうか。苦々しいものが、めいめいの胸にのこされた。スポーツをスポーツとして朗らかに若者らしく愛すものの心に、或る憤りが生れた。四年後のオリンピックに、この民衆の真の感情がどのように反映し、生かされるであろうか。

 私は一人の市民として、オリンピック準備の成りゆきを、ごく皮相的にではあるが注目している。そして、既に少なからぬ無理が生じていること、或る特定の思想で、現実がきりこまざかれはじめていることを感じる。例えば、オリンピック村の敷地が成城学園の附近に選定されるらしいが、その敷地は寄附という形で、無代でとりあげられるらしい。オリンピック村の建物は競技がすんだ後も残るから、それを下附すればアパートメントとして収入を得られる。だから、それで償いは十分につく、という説の上に立てられた計画であるらしい。話したひとは、眉のところに独特の表情を泛べて口元を曲げながら、でもねえ、そんなに何年ももつような建物が果して建てられるだけたっぷりした予算がとれるんでしょうか。よしんば、書類の上ではそれだけの予算があったって、ねえ、と更に意味ふかく笑った。出来上るのはどうせバラックでしょう? と極めて現実にふれた洞察で云うのであった。

 一九四〇年のオリンピックが東京へ来るときまった時、新聞で首都の美醜を写真にして対比したことがあった。醜と目された部分を四年の間に何とかせよという意味がふくまれていた。ところが、醜として撮影された部分が人生の情景として、感情をもって見れば常に必しも醜ではなく、首都の美観の標本として示されたものの中には、却って東洋における後進資本主義の凡庸なオフィスビルディングの羅列のみしかないのもあった。都市の美醜、人生の美醜をどう眺めるかということについて、一つの永い論議がなり立つ問題であるが、ここでは、その方向へは赴かず、私は、一つの熱い心をもって、なぜさように、一部の人たちは日本の民衆の生活をあるがままに示すことを恐れるのか、という質問を提出したいのである。私たちは、窮屈な、窮乏化す日本の民衆として、日々それぞれの形で実に営々として生きている。この姿を外にして私達一般人の人生はないのであるのに、それが抹殺されて、何のためにマダムバタアフライのサクラバナやゲイシャや、フジサンのみを卑屈に修飾して提供しなければならないのであろうか。人民戦線が勝利して以来、フランス出版物の輸入をきびしく制限しつつ、何のために志賀高原のてっぺんに国際観光ホテルを建てて、外務省がそのために尽力しなければならないのであろうか。

国威ということが、昨今新しい内容でとりあげられている。それを発揚した時代への思慕は、女の服飾の流行に桃山時代好みとして再現されている。国威というものの普通解釈されている内容によって、それを或る尊厳、確信ある出処進退という風に理解すると、今回のオリンピックに関しては勿論、四年後のためにされている準備そのものの中に、主としてそういう抽象名詞を愛好する人の立場から見ても何か本質的にそれと撞着する観念が潜入しつつあることが感じられるのである。

 大体、外国人を案内して、外見的には、生活系統が全然ちがう日本を、現実的に、私共があそこをこそ観て欲しかったと思うように、観察させることは、日本の事情に於て難事中の難事である。又一方からいうと、そういう目をもった外国人が果して何人来るであろうか、とも考えられる。このことはジャンコクトオが日本へ来て、詩人堀口大学氏にあちこち案内せられ、後のちかえって発表した日本印象記をよんで痛感した。コクトオがたった一人で足にまかせて東京を歩いたとしたら、或はもう少し彼の生きた目が生きた日常の現実にぶつかり、日本の民衆の姿が映ったかもしれない。コクトオは或る意味で才能をもった詩人と云われているのであるが、彼の日本印象記は、おさだまりの日本印象記であった。彼は、自身のカリケチュアを私共に示した。私共は私共の現実の中に生き、その悲喜を生きている。コクトオやスタンバアグが大川端の待合で、或る気分を日本的と陶酔する姿を、苦しい笑いでこちらから見物せざるを得ないではないか。

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